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自分に都合よく考える人 その二

  昨日 の続き。  「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」というコピペが流行ったことがあったけど(余談だけど、このコピペの元はコミック『少女ファイト』である)、いま僕が不安に思っていることはまさにこういうことを読んだ人に思われているんじゃないか、ということだ。自分の考える正しさの範囲では正しいけれど、それだけで正しいとは必ずしも言えない。それは僕が愚かだからだ。そして、愚かでない人間などいないのだけど。  言葉の繋がりや意味の繋がり、あるいは論理の繋がり、接合性について僕の文章には曖昧な点が散見される。それは僕が心地良いように書いているからで、自分の中では成り立っているつもりで書いているが、実は接合できないところを無理やり繋げていることがあるのだと思う。それはつまり昨日の文章でいうところの、自分に都合のいい考えなのだと思う。  そういうことは自分の視野狭窄から来るかもしれないし、私の知っていることに限りがあることから来ているかもしれないし、例外を考慮しない愚かさが表れているのかもしれない。自分の考えの範囲でしか物事を考えておらず、そこから出ることもない。  何かの考えを書いたとして、そこにある条件で考える限りでは正しいっぽいけれど例外はいくらでもある場合、それを読んだ人は欲求不満になるだろう。都合がいいだけの文章であると思うかもしれない。そういう例外を網羅しないことには何か考えを書いたところで、私の中だけでしか通用しないものになる。  僕にとっては書くこと考えることは心地良いことだ。自分にとっては自分の考えは「常に」正しい。自分の中にある限りは。だけどそれがひとたび外に出ると、その正しさは途端に怪しいものとなる。自分の中で十分に咀嚼されていないからだと想像しているけど、どうなのだろう。一つひとつの言葉のつながりを精査していくことは結構しんどいことだ。自分の考えに酔っている場合は特に。自分の考えを揺るがす全てを除外したくなる。それが「正しい」としても。だけど、その除外したい気持ちを退けない限り、正しさにはたどり着けないだろう。  自分の考えに酔うことは簡単である。こんな風に文章にしたためて、表現する必要などなく、ただ自分の正しさに酔っていればいい。だ、け、ど、その考えはおそらくなんの役にも立たない。私は自分の考えや、文章を、きちんと社会の

自分に都合よく考える人

 自分に都合よく考える人、っていうのが身近にいて。自分にもそういう傾向があるので、今日はそのことについて考えたい。  それってたぶん、自分が全てだと思っているってことだ。大げさに言ったら自分が世界の中心にいるという感覚があるのかもしれない。自分で全てが完結すると思っていて、人の力を借りようともしないし、自分でなんとかしようとする傾向にある。自分でできると思っている。自分のことしか考えていないし、それはつまり自信過剰なのかもしれない。自分に自信を持っていると、自分に都合よく考えがちだ。自分の力でなんとかなると思い込んでいるのだ。本当に実行可能であれば、それは「都合のいい」というような言い方はしない。  しかし、これは当たり前のことだと断言したいけど、自分の力だけで生きていくことなんてできない。誰からも手を借りずに生きることなんてできやしない。自分のことだけを考えていると、とんでもないしっぺ返しを食らうことはわかりきっている。その生き方はどこかで破綻するだろう。  自分に都合よく考えてしまうことで、自分にはできないことも、できると思い込んでしまう。できることとできないことの区別がつかない。なんとかなるだろーと思い込んでいる。自分に都合がいい思考をするから、なんとなくというブラックボックスに物事を放り込んでおいて、なんとかなるだろうと思っているのかもしれない。でも、自分を把握せず努力なしになんとかなることなんてない。そういう思考の歪みや認知の歪みは、自分に自信があればあるほど増殖培養されてしまう。尊大な人はどんどん謙虚さを失っていく。そうやって、自分に都合のいい考えはその人の中でどんどん増大していき、周りの人が手をつけられなくなる。  自分の都合のいいように考えるとき、そこには欲望が働いている。健康でいたい、恋人ができるはずだ、結婚できるはずだ、子供ができるはずだ、住む家はいつも安泰にあるはずだ、したい仕事に就けるはずだ。そういう根も葉もない願望、欲望が働いて、自分の都合の良いように考えてしまうんだろう。夢見がちといってしまったらおしまいだけど、できもしないことをできるだろうと判断してしまうことほど無謀なことはなく、なんの努力もしないで自分の欲望を叶えようだなんて、ただ虫のいい話というだけなのだ。  いろんな人の立場に立って考えたり、行動できなければ、社会的生活

自分から魅力を損ねる人

 否定的にモノを表現する人にぼくは魅力を感じない。自分がそうしないように気をつけているけど、つまり魅力的でありたいと思っているわけだけど、自分のことを卑下して卑屈であると評することがある。「自分なんて」というわけである。そこにあるのは謙虚さではなく劣等感の塊としてそういう発言をしている。自分を否定することでその否定を引き出して、自分を肯定したいのかもしれない。そういう心持ちそのものが卑しいし、下品だと思う。  魅力的である自分を表現する方法ってたぶんいくらでもあって、人に役に立つこともあれば、自分を高めることだったりもするのだろう。否定的なことを言わない、人の嫌がることをしない、ということだってそういう表現の一つだ。そうやってみんな人に気を使ったり、努力したりして、「社会的に」生きている。  魅力的であり続けるべきだろうか、っていうことの答えはたぶんなくて、その人その人の状況によって、その規模も深さも変わるだろう。結婚して全てを受け入れられるという状況にある人は、そのほとんどの魅力を捨て去っているということだってある。  社会的に生きるのならば、なるべく魅力的であるべきだと思うわけだけど、何を魅力的であると考えるかも人それぞれ違っている。そうやってみんな自分の思う魅力を押し出して、あるいは押し出さずに生きている。  「自分なんて」と表現するときにぼくは、自分の魅力そっちのけで考えている。魅力的な自分を演出することさえないのに「自分なんて」と卑下している。そんなこと言う暇があったら魅力を高めることにいろんなリソースを費やして努力すればいいのに、卑下することによって自分の魅力を下げている。そのことの愚かさ。そういうことを薄々感じていて、なんだか卑屈な自分を気に食わなくなっている。  劣等感は抱いてしまうものだ。人を見て悔しいと思うこともあるだろう。でもそれを表現するかどうかは品性である。否定的にものごとを表現することほど自分の魅力を損ねることはない。魅力あって初めて人は社会的に生きることができるんじゃないか。依頼されるという魅力を備えているから仕事ができるし、そこに暮らし続けることができるだろう。  魅力のない人間はいないと個人的には思っているけれど、自分からそれを損ねている人はいるし、そんなに勿体無いことはないように思う。自戒を込めて。

沈黙と「君」

 僕は、病気でしゃべることができなかった。しゃべらないということを、どのくらい自分の理性を以ってできるのか僕にはわからないけれど、とにかく僕はしゃべることができなかった。僕にはしゃべりたい人もなかったし、まったく孤独だった。ほとんど笑うこともなく、ただ生きているだけだった。簡潔に言ってしまえば、いろんなことに絶望していた。 ***  でも、しゃべれるようになった。それはいろんなことを許せるようになったからだと思う。認めることができたからだ。受け入れることができたから。しゃべれなかったことが嘘みたいに当たり前のようにわたしはしゃべり、笑っている。 ***  君にしゃべりかけるということを、どのくらい理性でこらえることができるだろう。  君を抱きしめるということを、どのくらい理性でこらえることができるだろう。  君にキスすることを、どのくらい理性でこらえることができるだろう。  君に恋することを、どのくらい理性でこらえることができるだろう。  それらをこらえることはどれもわたしにはたぶん不可能だ。  もしそうしたいのだとしたら、それは病いだろう。 *** 「君」というブラックボックスを用意したなら。恋に恋い焦がれている高校生みたいなことを考えたなら。恋は素敵。こらえることのできないその厚かましさを、僕は愛する。「君」が許してくれるなら、しゃべりかけ、抱きしめて、キスする。 ***  病いのわけはきっと様々で。きっといろんな理由で人は口を閉ざしてしまうのだろう。  僕の絶望が病いだったように、わたしのいつかの恋も病いなのだ。  僕たちは恋してく。  わたしたちは病んでいく。  家族はできても、孤独はきっと癒えはしないだろう。  今日も独りの夜を、「君」とふたりで。

お金について

 今日の文章はいま僕が抱えてる悩みのひとつについてです。  僕はお金を稼ぐということに頓着していない。そこそこでいいと思ってるし、仕事しないで暮らせるのなら、そのほうが良いとさえ思う。それで幸せならね。あくまで倫理的に社会的に憲法的にそれが許されるのならば、ということだけど。  お金の話をしようとすると仕事の話になっていくのでとりあえず切り離しておく。純粋にお金について、まずは書きたい。  お金が無ければできないことって結構あるだろう。結婚も子育ても、何もかもにお金はかかる。自分の範囲で幸せでいるためのお金と、人を裕福にするためのお金の量には当たり前だけど大きな差がある。あくまで裕福であって幸せとは敢えて書かない。  あと税金を払うとか寄付や募金をして人を助けるとかみたいな話も今日は割愛します。あくまで自分と自分の周りだけの話に簡略化して考えたい。  お金(を稼ぐこと)に執着しないことの理由の一つには、たぶんどっかで、幸せはお金に依存しないはず、と思っているんだと思う。思いたいんだと思う。お金があるから恋人ができるとか、結婚できるとか子供を育てられるのだ、ということを本当には信じていないのだと思う。なくても愛し合ってさえいれば意中の人と結ばれて、結婚して子供を育てることができる”だろう”と考えている。  ちょっと考えればわかることだけど、それがアマいということは”頭では”わかってる。だからこのことを悩みとして認識しているし、なんとかしたいとも思ってる。頭ではわかっているけど、どっかでそんなのは本当の愛ではないとか、自分の求めている幸せとは違う、などと考えてしまう。  そういう自分の考えは、実は簡単に変更可能でそんなに執着があるわけでもたぶんなくて、「魔法の言葉」一つですぐに違う道を往くだろうって感じはしてる。浅い考えで、自分の都合の良いように考えているだけだから。  何をするにもお金はかかる。どうしてもかかる。この社会では自明である。一人で幸せになろうとしたって当たり前にお金はかかる。その量が少なく済む、というだけの話。自分の範囲なら今の自分で賄えるというだけの話。将来設計も予測も不慮の何某かにもなんの備えもない。  そういう自分を見てバカにする人もいるだろうなと思うけど、なるべくしてこうなってしまったので、あまり気にはならない。要するに病気を患っ

人を人としてみること、モノとしてみること

 仲良くなる人とそうでない人がいるのはナゼなのか。例えば同じクラスになったとしても、特別に仲良くなる人とそうでもない人がいる。たまたま席が前後になった人と気があったとかこの世界には様々なエピソードに事欠かないけれど、何が人と人が仲良くなることを決定付けているのだろう。  人と人が仲良くなるということは、まずはその相手に興味を持つことから始まるだろう。その上でその興味を満たしあうことができたなら、それが仲良くなるということの第一歩かもしれない。  人が人を理解しているということと同じくらいに、その人のことを許せるということが大事なのではないかなぁと僕は思う。他人は他人である。どんなに仲が良くても自分の意に反することはいくらでもあるだろう。全てを自分のいう通りに行動する人がいるとしたら、それは友人ではなく奴隷である。人のすることを理解できなくとも、とにかく許すことができたなら、その関係はある程度はうまくいくんじゃないか。そこにはプライドだとか相手をどう見ているかだとか様々な要素がある。人と人が関わるときに根本にあるべきなのは尊敬の念なのではないか。それがなければ、どんな関係だとしてもうまくいくわけがないとさえ思う。尊敬という言葉が重いのなら、認めているだとか対等に見る、人として見ている、ということでもいい。人をモノとして見ていることは意外と多い。僕の中には人として認められたいというような欲求は当然あるし、人として認められないのならその関係はきっとうまくいかないだろう。  人として認められていない、ということに僕は絶望してしまう。人としての尊厳を失われてしまう。そういう場面では誇り高く生きることは困難だ。見下されることにはなんらかの理由が在るのだろうけど、ここではそのことについては触れない。欠点を晒したくないということではなく、一般性を失うからだ。欠点は誰にでもあるが、人によっては許すことのできない欠陥というのもあるのだろう。ある人たちにとってのそういう許しがたい何かを、僕が持ち合わせていたというだけに過ぎない。 ***  心を開いている閉じているという言い方がある。人は誰にでも心を開くわけじゃない。同じように出会った人に対しても閉じたり開いたりしてしまう。同じ人に対しても時と気分によって、あるいは何かのきっかけによって、開いたり閉じたりしてしまう。人と人の関係

互いに高め合う人間という複雑系

 人と人が何かをするということについて、なにがしかの感慨を覚えてる。なんでもいい。バンドメンバーがそこに集まって音楽を奏でることも、小説家と編集者が寄り添って小説を書くことも、詩人と詩人が対詩をすることも、女と男が知り合って一生を添い遂げることだって。  それは唯の例であって、人と人がすれ違っていくことも、あるいはすれ違いすらしないことも。人と人の間に巻き起こる全てのことを、今は注視したい気持ち。  その人たちが合わさることになった経緯とか努力とか歴史について、思わずにはいられない。それが優れていても、そうでなくても、関係ない。その人たちが出会ったことの尊さを思わずにはいられない。  人と人が出会うことを縁というけれど、縁を感じるかどうかはその人たち個人こじんが決めることだろう。僕が縁を感じても、相手が感じなければ、出会うことはできない。親と子でも、クラスメイトでも、何かを感じなければ、その人たちはうまくいくことはないだろう。愛情を注いでも、うまくいかないだろう。  優れているから必然的に出会うこともあるし、ただたまたま出会ったふたりが高め合って昇っていくこともある。だから優れているというだけでは、私は励起しない。そこで高め合うことのできる人たちこそが私を愛おしくさせる。  私は人とうまくやるだろう。そんな感じはしているけれど、誰とでも高め合うことができるかといったら、そんなことはない。気を許していてもうまくいかないことはあるし、緊張関係にあるからうまくいこともあるだろう。  人という複雑系の存在に、僕は魅了されてる。  僕はまだうまくやる方法を知らないのだ。人に絶望しているわけではなし、希望を持っているというわけでもない。ニュートラルに人を受け入れて、あるいは関わることができるだろう。この先の未来に人が関わってくることは必然で、そのことについては希望を持っている。この家を一歩出たなら、そこには当たり前に人は居て、その人と関わるも関わらないもきっかり半分は僕がその責任を負っている。受け入れることができるだろう。突き放すこともできるだろう。  人と人が織り成す全てを愛す。この全て歴史も未来も輝かしい。  僕がこうするから、君はこうする。  君がこうするから、僕はこうする。  多くはそこから始まっているんじゃないのか。