しゃべれないということを、どう捉えているか
端的に言ってしまえば、しゃべれないことを受け入れてしまっていると思う。たぶんわたしは経済的には将来にわたって一人で暮らしていくぶんには困らないと思う。だからと言って、経済社会活動を放棄していいことにはならないし、働かなくてもいいことにはならないとは思う。厳密に言えば、わたしは働いていないとも言えない、とも思うのだけど、そこははっきりさせたくないところというか、今日はどうでもいいことだ。とにかくわたしは慎ましやかに一人で生きていくことに経済的には困らないと思っているのでその点はご心配なく。それは本当に運が良かった、恵まれていることだと思う。その点は開き直っているのだと思う。 もちろんしゃべれないことによって困ることはたくさんある。ありすぎるのだけど、そのことを見て見ぬ振りをしているし、困ることを可能な限り避けて暮らしていると思う。それでも、ある程度充実して暮らすことはできていると思っている。ある人に言わせるとそれは人間活動ということらしいけど、運動し、筋トレし、料理を作り、瞑想し、音楽を聴き、本を読み、ネットをし、ときどきこうして書く。わたしはたぶん幸せだと思う──一人で暮らすことが幸せか、ということは置いておいて。それはしゃべれないからそういう価値観を獲得していったのか、わたしが本来そういうものを持って育ってきたのかはわからない。一人っ子ということは大きかったと思うし、元々群れるのが好きなたちではなかったと思う。寂しさはそれほどないし、一人でいて性急に困るということでもない。 今のわたしが目指しているのは、おそらく、いかに社会の役に立つか、ということだと思う。しゃべることが必ずしもそのことに必要だとはそれほど思っていない。確かに不便だし、できることも限られてしまうけれど、できないことはできないのだ。もちろんしゃべろうとする努力は怠るべきではないし、しかし、しゃべれなくても、社会に役に立つことはできるのではないか、とも思ってる──思いたい。それは願望に過ぎないかもしれない。それは安易に、働きたいとか、お金を稼ぎたい、とも違う。わたしは社会によって生かされている。わたしが社会の中に存在しているのなら、社会に何か還元しようと思うのは当然のことだと思う。わたしにできることがあるのなら自分を社会に活かすべきだ。できることを少しずつ広げていくことだと思う。わたしにとって成...