仕事によって自分を高めるということ

 わたしをどこかへ導いてくれるのはきっと、「職業としての技能」だと思う。根性でも体力でもなく、ある一定のことを知っていて、実行できるということ、それだけなのではないか。たぶん。職業者として淘汰されるのか、請われるのか、壊れるのかわからないけれど。当たり前だけど、仕事としてのバイアスを通してしか、良い仕事は絶対に不可能であると思う。人生と仕事の関係について、あまり深く考えてこなかったけれど、今のところ、わたしは職能としての個性は絶対に持っていない。毎日文章を書いたとしても、それは個性とは言わない。病気であることを個性だと言い張るのならそうなのかもしれないけれど、それは他人の都合なのだと思う。
 あるのは押井監督の言うところの「生活の癖」でしかない。人にはそれぞれに個性があると見せかけることが教育として都合がいいし、経済活動にも都合がいいし(たぶん)、なんか聞こえがいいというだけで、それは実体を持った職能としての個性とは違う。
 今より若い時、装幀の勉強をしようというころ、君のファッションセンスでデザインをやるの?と言っていた人がいたけど、それとこれとは全然違うことなのだと当時から思っていた。自分の都合の良いように考えていただけかもしれないけれど。自分を良く見せようといところに自分は全然立っていなかった。人間という本性は着る服や髪型では絶対にわからないと当時から思っていた。勤めていた本屋はデザイン系の本をたくさん扱うところだったから、おしゃれなお客さんもたくさんいたし、バイトにも美大の学生もそれなりにいたのだけど、彼らには実体としての個性は何もなかったように思う。どんなにおしゃれしていても、どこかで見たことのある我がをよく見せたい何かであったし、作ったものを見ても良く見られたい何かでしかなかった。
 一方、自分が何かやってたかと言ったら、ほとんど何もやってなかったんだよね。ただ夢想してただけだし、こんな本を造りたいとか、ただかっこいい本との出会いを毎日心待ちにしていただけのように思う。そういうことにイチイチときめいていたし、そういう気持ちは今でもあまり変わってないと思う。
 個性は「仕事」によって暴露されるのだ、と思う。仕事による切実さは他では得られない。できなければ放っておかれるし相手にされないし、食い扶持はなくなる。良い仕事をし続けることで、わたしたちは、きっと、生きていける。「きっと」というのは、それだけが良い仕事、良い人生の条件ではないからだ。残酷にも人生には運も生まれも必要なのだと思う。どうにもならないことはたぶんたくさんある。
 病気であることや障害があることを個性だと言いたい人がいることは知っているけど、それは個性ではなくて、生きるのには何の役にも立たない、あくまで「障害」でしかない。片足がない人がそれによって生きるということは稀だと思う。そういう人もいるのかもしれないけれど、障害はあくまで障害で、そうでなかった人生など存在せず、ただただ人生の壁となって立ち塞がる。障害というわかりやすいことだけではなくて、健常者だって同じなのだと思う。人はいろんな要素から仕事を得たり選んだりするけれど、実体を持った個性を通して仕事に就ける人は稀かもしれない。職能としての個性を持って初めて、人は「個性」的になり、(現代的な)人間となれるのではないか。そうなって初めて、人に役に立つ人間となれるのではないか。自分の力を以って、生きていけるのではないか。
 仕事によって人は自分を切磋琢磨していくことができるし、それは雇用主からも要請される。見込みがないのならそういう扱いを受けるし、仕事をするという場にいる限りはなんらかのチャンスがあるはずである。いつかはチャンスは巡ってくるはずで、巡らないのならそれなりに理由があるのだと思う。雇用されている時点で、なんらかの恩恵は受けていて、それだけで承認されているとも言えると思う。
 良い仕事をし続ける努力が必要である。人間をどこまで高めることができるのかなんてわたしにはわからない。今の自分のことで言えば、素人に、たった一人で、どこまで切迫して良い仕事ができるのかということには疑問がある。しかしそうしなければならない理由は少なからずあるのが現状だ。そこをぶち破るヒントはたくさんある。孤独に良い仕事をしようと努める工夫をし尽くすことも良いと思うし、烏合するのも良いと思う。何かを知り、実行しようと思っている限り、わたしはきっと大丈夫だと今は思っている。
 自分を高めようということでしか今のわたしには仕事に対するモチベーションがない。お金を稼ぎたいとか生活のためということは少なくとも今のわたしにはモチベーションになり得ていない。それはたぶん幸福なことで、でも圧倒的に不幸なことかもしれない。
 人間として、わたしはどういう人間なのか、自分ではよく分からない。それはそういう媒介がないからだと思う。わたしには個性がないと書いたけど、現れようがないのだと思う。そういう場にいないのだから。一刻もはやくわたしはわたしをそういう場に放り込むべきだと思う。そうすりゃあ、自分がどんなもんなのか、きっと分かるのだろう。それは将来にわたって、長い期間にわたって。うまくいけば請われ、自分を高みに乗せることもできるだろう。そうされないという未来を恐れているのだろうか、わたしは。やってやれないことではないはずだ。恐れるのは向き合っているからだ。あらゆる壁を壊すことが必要である。その壁の向こうに未来はある。

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