ゲームを作る人たちのことを思ってる。特に黎明期にゲームを作っていた人たちのことを。開発者が子供の頃にはなかったコンピューターゲームを作るということ。コンピューターという魅惑的な代物に取り憑かれた人たち。今ある土台をこの人たちは作ったのだ。 僕たち子供はそれに夢中だった。間違いなく、夢中だった。誰もがゲームをしたことがあった。ゲームを話題にしたことがない子を探す方が困難だった。傑作も大傑作も、クソゲーも含めて、みんなゲームの虜だった。 彼らは仕掛け人であり、創造者だった。山師だったし、クリエーターでもあった。ゲームを通しての教育者であり、ゲーム内の法律家であった。彼らは革命家だった。 いちから文化を作るということの興奮を。作ったものを遊んだ人たちが笑顔になるという喜びを。 どうやったら遊びとして成立するのだろうか? どうやったらそれをする人を夢中にできるのだろうか? どうやったら致命的なバグをなくすことができるのか? これを作ることによって、やった人にどんな影響があるのだろうか、と考えない人がいただろうか? 考えていたと思いたい。彼らは自問を繰り返したに違いない。 そして戦っていたはずだ。社会と、会社と、上司と、同僚と、自分自身と。はたまた子供達の親と、あるいは子供たちと。 そういった自問や戦いを、彼らは誰に習うことなく、彼ら流にやったのだ。その戸惑いと楽しさに代わるものはもうない。その時だけのものだった。 とにかく良いものを作るという達成に、にじり寄っていくその過程は、ゲームそのものよりも面白い。僕はゲームに関する逸話を読むのが好きだ。今はゲームそのものよりも、それを作っていた人たちのことが気になってる。それは熱い時代だったんじゃないか。みんな燃えていたんじゃないか。とてつもなく面白かったんじゃないか。文化が燃え上がっていくその過程は、きっと、何よりも美しかったはずだ。 そんな時代を生きたかった。開発者としてその時を生きたかった。それはきっと、文化の初動についての憧れなのだ。