しあわせを得ること
最近は、けっこういろんなことが自分に依っているなって思うようになった。ほとんどのことが自分次第なのではないかと。それはあまりにも自分が見えていないかもしれなくて、大げさかもしれないけど。寝ている間、朝起きるのを心待ちにしてるのは、意のままに行動できるのは起きている間だけだ、と思っているからかもしれない。 自分にコン トロール できる事、そうでない事とあるけど、大まかに、自分にできる事をそうでないと思い込む「くせ」が以前のわたしにはあったと思う。2年前の日記を読むと、あらゆる事を世界のせいにしている。障害は依然としてあるけど、そんなに気にするほど大した問題なのかね。何とかなるんじゃねえの?っていまは思ってる。この世界には、きっと楽しいことがたくさんあるし、わたしはわたしの限界まで現代人としての自分を楽しんでないって思う。 この、限界まで楽しむ、っていう発想が以前のぼくにはなかった。 チキンレース するわけじゃないんだから、限界を超えたところでぶっ壊れるというわけでもないし、幸せであるためにはできる限り大きな幸福を掴もうとすることは人間には必要なことなんじゃないか、って最近は思ってる。それは、お金をなるべく儲けたいってことに限らずね。それはもちろん生きてくのに必要なことだけど、それだけじゃあない。じゃあ何なのかって、そんなに具体的には挙がらないけど。 人と関わる悦びというのもあるって、最近は思うようになった。それから考える悦び。妄想する悦び。実行する行動する悦び。 映画を観る幸福、音楽を堪能する幸福、本を読む幸福、文章を書く幸福。 食べる幸福、寝る幸福。 子孫を遺すという幸福。 そのどれをも、わたしは適当にやめてしまってた。あきらめていたといっていいと思う。自分にはこのくらいが身の丈だと、どっかで思ってた。そのくらいが自分らしいと、どっかで思ってた。自分で自分の大きさを決めていた、っていうか。自分なんて、みたいな気持ちがあったかもしれない。卑屈になるのは勝手。だけど、幸福の享受をわたしは自分から拒否していたように思う。 自分次第の多くは自分の行動を拠りどころにしてる。行動してくから変わってく。人に言われたとて、その気にならなければ、人は行動しない。その行動を促してるのは、スイッチを入れてるのは、自分以外にいない。なにか切っ掛けを得て、やると決意して、実...